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De temps en temps

トビタテ!留学JAPAN医学生の今とこれから

熱帯の国Day22-29 はじめての心肺停止

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本ブログにおける症例提示・医療現場におけるエピソードは、患者情報の守秘義務等や倫理的配慮のため、現実を医学上の矛盾のない範囲で脚色・修正したフィクションである事を予めご了承頂きたい。特に投稿日時についてはランダム化するなどして個人の特定につながらないように配慮に努めている。また、無断での転載・引用を禁止とする。

 

それは突然に

 

その日、僕は上級医にあたるResidentとナースステーションでお喋りをしていた。治療の方針や診断の妥当性などをいつものように話していたのだ。これまで続いてきた毎日と同様の、ありふれた1日が過ぎるかのように、ごく普通に過ごしていた。

 

ところが、突然ベッドサイドで患者様の近くにいた看護師が突然悲鳴をあげて、こちらに向かって必死で何かを叫び続けている。すると、隣にいた上級医は表情をとたんに硬くし患者の元へ駆け寄り心肺蘇生を直ちに開始した。周りの看護師達も悲鳴を挙げながら、次々と集まってくる。心臓マッサージを続ける医師の傍らで、アドレナリンやアンビューバッグ、除細動器や心電図などが手際良く準備されていく。

 

日本で、心肺停止に立ち会ったことのなかった僕は、ただ呆然としてその場を眺めることしか出来なかった。タイ語を理解出来ない以上、出しゃばるわけにはいかない。不確実なコミュニケーションは患者様の不利益になる可能性もあるからだ。

 

心肺蘇生は医師や看護師のリレーによって必死に続けられた。心拍が回復しては、停止し心肺蘇生を行う。そんなことの繰り返しであった。

ご家族は涙を浮かべながら、医師から病状についての説明を受けている。その傍らで、僕は他のドクター達とさらなる治療の可能性について議論していた。

 

しかし、そんな中ご家族が出した答えは、これ以上の延命措置を望まないということだった。高度な医療を受けるだけの経済的余裕はなく、これ以上苦しむ姿を見たくないというのが治療中断の理由であった。

直ちに心臓マッサージは中止され、自然の流れに委ねられた。

 

 

そしてまもなく、患者様は息を引き取った。

 

 

こういう風景は、医療者として生きていれば日常的に遭遇するのかもしれない。今回、この異国の地ではじめて遭遇した「死」に際して感じたことを書き留めておきたい。

 

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N=1の重み

彼の状態は死に直結する程、悪いものだったのだろうか。まだまだ拙い医学生としては、きっと日本でならさらに高度な治療を続けて、なんとか回復することも出来たのではないかと思ってしまうのだ。もちろん、「生き方=死に方」に関する価値観は人それぞれであるし、むやみに高度医療を乱用して患者の尊厳をかえって傷つけてしまうこともあるだろう。僕個人としては「死することへの諦め」というものも肝心なような気もする。しかし、治療中断の判断に経済的な事情が勘案された時、やはりそれには個人には帰属しない何らかの社会的問題を孕んでいる気がしてならないのだ。

 

タイは国民皆保険制度を達成しており、医療アクセスという点で優れていると良く言われる。大学病院での治療は原則として無料であるからだ。しかし、その影には特定の病院にしか通院が許されない不自由さと、医薬品・治療の適応の狭さが存在する。また、タイの保険制度はいくつかの種類が存在し、公務員と一般人の治療の保険適応範囲が異なるというので驚きだ。保険の適応範囲やアクセス制限の是非についてこの場で論じるつもりはない。しかし、保険制度というマクロなシステムの影には、いつも少数派の苦しみが存在することを肝に銘じておく必要はあるだろう。タイの医療に限らず、世界中のあらゆる国の制度の大半は、多くの人の利益となる一方で、誰かを傷つけている。

 

僕は、公衆衛生学分野の研究者として、統計学を駆使し、あらゆる医療情報の解析を行っている。統計学あるいは科学の世界でN=1というのは無力で、時には非科学的なものとして切り捨てられてしまう。統計データを扱う時、死亡者数や罹患者数といったデータは「記号」として扱われ、その一人ひとりの物語に焦点が当てられることはない。それはそれで科学のあり方ではあるのが、数字の向こう側に患者様の姿を見いだせるバランス感覚を持った研究者になりたいと切に願う。

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